1945年の終戦から1年半もしないうちに228事件が起こった(1947年)。はじめは、行政長官の陳儀は民衆と和睦するようなことを言っていたが、実は(大陸にいた)蒋介石に電報を送り、兵の派遣を要請し、3月基隆に上陸させ、無差別殺戮を行った。今でも伝えられているが、捕まえた台湾人の掌に穴をあけ、そこに針金を通して、何十人も岸壁に並べ、後ろから機銃掃射を行った。それと同じようなことを台湾全土でやった。それを「清郷」と呼んだ。そんなことで、それまで祖国に憧れを持っていた若い人たちが立ち上がった。しかし、決して武器を取るわけではなく、我々の台湾はどうするべきか、どこに自分の道を求めるべきか、などを語り合う勉強会が多く行われた。よく読まれたのは、中国ではやっていた魯迅や、1930年代左派の文学者の作品、毛沢東の「新民主主義理論」(1940年)などだ。
ところが、1949年5月戒厳令が敷かれて、出来たばかりの憲法も凍結し、非常事態ということで、スパイ、反乱を取り締まる条例が作られ、白色テロが始まった。それまで国民党政府の国際的立場は随分危うかった。1950年1月、アメリカトルーマン大統領が「台湾不干渉声明」を発表、国共内戦への介入(=汚職にまみれた国民党への支援)放棄を宣言していたが、同年6月、朝鮮戦争が勃発、共産勢力の拡大を懸念したアメリカは第七艦隊を台湾海峡に派遣した。蒋介石、蒋経国は、これにすっかり安心し、反体制派を次から次へと捕まえ、片っぱしから銃殺刑に処した。1950年から銃殺刑が急増するのはこのためだ。台湾の白色テロは朝鮮戦争がきっかけだった。事実、これより前に捕まった人たちは、死刑にはなっておらず、感化教育のみで釈放されている。
この戒厳令が1987年7月まで38年間続いた。蒋介石が死んだ1975年頃は、台湾は平和な時代に入りつつあったが、蒋経国は戒厳令を解除しようとしなかった。怖かったんだろう。また中国に戻って王様になりたかったんだろう。
戒厳令解除のきっかけになったのは、「江南案」と呼ばれる事件だ。ジャーナリストの江南(本名:劉宜良)は、「蒋経国伝」を書き、過去を暴いた。さらに、呉国楨(1903-1984年、1949年-台湾省政府主席)の伝記も書こうとした。内部事情を暴露されるのを恐れた蒋経国は、次男の蒋孝武を通し、国防部情報局長の汪希苓に命じ、有名な暴力団「竹聯幫」の陳啓礼らをアメリカに派遣、劉を暗殺した(1984年10月)。ところが、江南は台湾出身であるものの、既にアメリカの市民権を取った「アメリカ人」であったため、かつ、影には蒋経国の姿もあった事が明るみに出て、アメリカの非常に強い反発(台湾への武器供給停止検討)を招いた。言ってみれば、台湾の政府が、暴力団をアメリカへ派遣し、アメリカ国民を殺害したのだから当然だ。アメリカの対抗措置を恐れた蒋経国は、翌1985年、アメリカのタイムズ紙に「蒋家の子孫は今後中華民国の総統には就かない、又、総統は選挙によって選出される(国民代表大会による間接選挙)旨語った。
このあと、蒋経国は蒋孝武をシンガポールへ送り、リークワンユーに「シンガポール駐在商務副代表」として、その庇護を依頼している。このことを、台湾大学の歴史教授、陳翠蓮先生が詳しく書いている。
政府は、情報局長の汪(下写真参照)を終身刑に処し、ここ景美軍法処に送ったのだが、しっぽ切りにすらなっていないのは、一般の囚人のような監獄ではなく、寝室、応接室、書斎などもそなえた「別荘」に住まわせていた。おまけに1991年には減刑され「出獄」している。(人権博物館内に残っており公開されています)