景美人権博物館での蔡焜霖さんのお話

青島東路の軍法処にいた時、印象に残っているのは、基隆高校(台湾省立基隆中学)の校長をしていた鐘浩東(1915-1950年)だ。

早朝の点呼で呼ばれ、死刑にされたが、彼は以前から「俺が行く時は安息歌のような悲しい歌は歌わないで、幌馬車の歌、を歌ってくれ」(これだって十分悲しい)と言っていた。彼は、李登輝と同様、台北高等学校を出て、その後明治大学を卒業、台湾へ戻り、蒋渭水(1890-1931年、台湾の社会運動家)の娘と結婚した。熱血漢で、奥さんと中国に渡り抗日運動をやっていた。向こうで憲兵に捕まり、学歴の高さから日本のスパイと勘違いされ、あわや銃殺されそうになったが、台湾から来ていた丘念台(広東出身の台湾客家人)に助けられた。戦後、台湾に戻り、高級官僚にもなれたのだが、官を嫌い、教育の道を選んだ。生徒から慕われた校長だったそうだ。国民党の堕落に怒り、ガリ版で新聞(「光明報」)を作り、政府批判を行い、捕まった。

私は、「幌馬車の歌」は、日本人の叔母から習い知っていた。鐘浩東が牢から出されるとき、多くの部屋からこの歌が聞こえてきた。どんどん声が大きくなり、泣きながら歌っている人もいた。私が、青島東路の軍法処に来て間もないころだ。

因みに「非情城市」(1989年、監督:候孝賢)でも「幌馬車の歌」が出てくる(映画の1h-41m-22sシーン)が、これは間違い。この映画は228事件(1947年2月)を扱っており、この頃は、まだこの歌は獄中で歌われていない。1950年10月に鐘浩東の為に皆が歌ったのが始まりだ。

鐘浩東は、1949年に捕まり、最初は内湖の国民学校に送られ、感化教育を受けた。中国で抗日活動を行い、「祖国」の為につくしたのが評価された。始末書(反省文?)を書けば許してやる、と言われたらしいのだが、、、私は最後にみんなと歌でお送りすることができ光栄だった。

(軍事法廷にて)
ここは秘密(非公開)裁判が行われた軍事法廷。家の人は掴まってから、ここへ送られるまでどこへ送られているのか分からない。取り調べや拷問に合っているときは、家の人は自分の子供が、一年も二年も、どこで何をされているのか全くわからない。ここにきて、判決を受けるとようやく手紙を書くことができる。私も、青島東路の軍法処に来てから初めて家に手紙を書いた。

軍事法廷
密室裁判が行われた

判決前から差し入れはできるが、面会は判決後しかできない。

この軍事法廷の建物は、いくつかの部屋に分かれている。各部屋に壇があり、裁判官、検察官は上、囚人はもちろん下だが、1968年から付くようになった公設弁護人も下。普通は、弁護人と検察は同じフロアに座るのだが、軍事法廷では違った。また、弁護人といっても刑を軽くするのではなく、自白を強要するようなことが役割だった。ここにあるようなベンチはなかった(非公開だから見に来る人はいない)。

国民党に情報公開(「転型正義」)を請求しているが、なかなか出てこない。林義雄のお母さん、娘さんが殺害された「林宅血案」の件も真相は今でも闇の中だ。24時間、警察が監視していながら何故そんなことが起こったのか。もし当時の国民党の文書や、蒋経国のメモでも出てくれば何かわかるかも知れないが、、。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次