処刑の時は、呼ばれていくと、がんじがらめに後ろ手に縛られ、胸に名前を貼られ、処刑前・後の写真を撮られる。その写真は、保安司令部~国防部を経由し、総統府まで届けられ、蒋介石自身が確認する。大陸で多くの部下の寝がえりに会い、共産党に負け、台湾に逃げてきて、人を信じることが出来なくなっていたのだろう。時には、20人のうち、例えば死刑が5人だと、それに満足せず、「12年以上は全部死刑」、とか、又、特定の人を指定し、「こいつは死刑!」とか「こいつは何故死刑にしないのか」などと赤い筆で指示を書いたりしていた。「軍法」に基づいた判決なのだが、実際には蒋介石の意見で殺された人も多くいた。
私は1950年、二十歳の誕生日を、シェラトンホテルの地で迎えたのだが、今でも自慢している。誕生日は、5つ星のホテル(軍法処)で、何百人ものお客さん(囚人)にお祝いしてもらったと(笑)
この軍法処が1968年、ここ景美に来た。ここには洗濯工場があった。アイロンかけもやっていた。
当時、総統府に機密室があった。その資料組の主任が蒋経国だった。彼は、情報組織と軍を一手に収め、そこから意見が出てきて、蒋経国から蒋介石に上がっていたかもしれない。総統府に行く前に、作戦部があったが、ここの主任も蒋経国だった。国防部でも、蒋経国の部下から意見があがり、国防部長も認め、総統府に送られた。従って、すべての情報機関は蒋経国の支配下にあった。その次男、孝武(1945-1991年)も蒋経国に習い、国防部の情報機関にいたが、父と同じように情報組織を抑えていたら、蒋経国の後を継いでいたかもしれなかったが、早まって暴力団をアメリカに送ってしまったことが裏目にでて、夢は破れた。それがなかったら、後を継ぎ、台湾は北朝鮮のようになっていたかもしれない。
(売店にて)ここが売店。囚人は自由に買い物は出来なかった。欲しいものがあると紙に書いて、外役(雑役に従事する囚人)に頼む。外役はまとめ買いして、囚人に分配した。
(面会室にて)差し入れをするときは、ここで登録した。差し入れの品は厳しくチェックされた上で囚人に届けられた。果物などは、切られて中身も確認された。判決を待つ人、判決がでた人は面会が出来る。登録後、面会室で面会する。囚人とはガラス越しに電話で会話をする。面会は10分に限られていた。言葉も北京語のみで、台湾語や日本語は硬く禁止されていた。我々の時代は戦争が終わったばかりで、まだ北京語が十分できない人も多かった。
(鉄門)手錠をはめられ、腰を屈めてこの門をくぐる。ここに来たら、医者も弁護士も人間の尊厳は砕かれた。犬猫の如く。
(牢屋)美麗島事件でここに送られて来たうち男の林義雄(1941年-)、黄信介(1928-1999年)、姚嘉文(1938-2008年)などは一階、陳菊、呂秀蓮などの女性は二階にいた。食事は一日二回、穴から入れられた。監視窓もあった。運動は、午前中15分、午後も15分許されていた。