景美人権博物館での蔡焜霖さんのお話

(青島東路の軍法処模型前で)これが、我々の時代の軍法処の模型だ。先ほど話したように、最初に東本願寺に送られた。日本時代は立派なお寺だったが、戦後、本殿を小さなブロックに分け、9月中秋節の頃、ここに送られた。その後、国防部保密局を経由し、10月初旬、軍法処に送られ判決となった。入口にコスモスの花が咲いていたのを覚えている。
元々大きな倉庫で、二階建てで窓はなかった。模型のように、左右二つの区に分けられ、40位の部屋(牢屋)に分かれていた。一つが約6坪位の大きさで、そこに20~30人押し込められた(=約2.5人/畳1枚)。私は5号室で、ここには28人入っていた。トイレも窓もなかった。天井には20ワット(かなり暗い電球)くらいの電球が一つ垂れ下がっていた。

空気は淀むので、真ん中に毛布を吊り、それを交代で揺らし、少しでも空気の動きを作ろうとした。トイレの代わりに、「便桶」が一つ置いてあり、新入りはこの横が寝場所になった。一人死刑になると、寝場所が少しずつ、いい場所に繰り上がっていく。足は伸ばせず、曲げて寝ていた。10月から翌年の1月までここにいた。その後、新店の映画館を改造したところに送られた。当時は、軍の倉庫、映画館、学校などが全部監獄にされていた。
イワシの缶詰、というが、イワシは尾鰭を全部伸ばせているので、我々よりましだった。その後、緑島に送られた時は、足を伸ばせて寝ることが来たので、それは気持ちよかった。

怖かったことは、早朝の憲兵の足音だ。部屋の外の鉄門がギーッと開き、足音が近づいてくると皆一斉に目を覚ます。恐怖の時間が来る。入ってきた憲兵は、囚人の名を呼ぶ。呼ばれた者はその日のうちに、刑場の露と消えた。何回もそんなことを経験した。

ある日、18歳の誕生日を迎えたばかりの青年が、向かいの牢屋から出てきて、我々の部屋の格子に掴まり、「先輩方、お世話になりました。お先に失礼します。」と挨拶に来た。まだ声変わりして間もないような、でも体格のしっかりした青年だった。後で聞いた話だが、その青年は名前が呼ばれると顔色が変わり、それでも健気に身支度し、母の写真を取り出し、「お母さん、すみません、先に参ります。」と挨拶し出て行ったそうだ。私より二つも若い子が死刑になるなんて、死神も自分のところの近くまで来たのか、と思った。

多くの人が、早朝点呼で呼ばれ、身支度し、出て行く時、我々は安息歌、鎮魂歌を歌ってあげた。あなたが流した血は道を照らし、我々はそれを又、、中国大陸で多くの大学生が殺された時、それを追悼する歌だった。

時には、先輩の中には、日本教育を受けていた為、早くから覚悟を決め、家から真っ白なシャツを持ってきて、「逝く時は真っ白なシャツに真っ赤な血を流すんだ」と言っていた者、短歌を詠む者など、ロマンチックな死に方をした人も多くいた。

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