景美人権博物館での蔡焜霖さんのお話

最後の政治犯となったのが、爆弾小包を謝東閔(台湾省政府主席)あてに送って怪我をさせた王幸男(1941-)で、1977年から1990年までこの施設にいた。彼は出獄するとき、車を借りて島内を回り、小高い丘まで来て、眼下に広がる緑島と、遥か彼方に見える台湾本島と中央山脈を見て、「こんな美しい国の為なら命をささげても惜しくはない」と言った。

1950年代に捕まったのは、殆どが「アカ」のレッテルを貼られたものだった。が、逮捕の理由が、次第に「台湾独立」の色がでてくる。1964年9月、彭明敏、魏延朝、謝聡敏らが「台湾自救運動宣言」を発表し捕まる。謝のメモを、唯一日本人で服役していた小林正成(1933年~)が秘密裏に持ちだし、タイムズ紙で発表されるに至り、それまで「台湾には政治犯はいない」としていた蒋父子のウソが明るみに出た。これにより、1970年代から、台湾島内にいた牧師やカトリックの神父、国際アムネスティなどの団体が、国内外から救援活動を始めるきっかけとなった。

(女性囚の写真を前に)この女性は銃殺刑にあった人だが、高等女学校を出たインテリだった。恋仲だった男は先に捕まり、女も結婚して子供ができた後捕まった。獄中で前の男と再会し、自分の髪の毛を男に託した。処刑の日、母と離れるのをいやがる子供を無理やり引き離され処刑された。男は出獄後、預かった髪の毛を、女学校の大木の下に埋めたという、、辛い話も多くある。

(仁愛楼=獄舎、の入り口付近)囚人の家族は、面会の時、この横の扉から入ってきた。従って、この道を「探親之路」と呼ぶ。入口には24時間衛兵が立っていた。

美麗島事件(1979年12月)で捕まった林義雄(1941-)の母が、1980年2月27日、ここにきて、息子と面会した。痣だらけでやつれ果てた息子を見た母親は面会室から出てくると、慟哭し、叫んだ。「何故、無実のわが息子がこんな目に逢わねばならないのか!一体、何をしたというのだ!」

その翌日、警察によって24時間警備されていた「はずの」林義雄の家に何故か「賊」かが入り、地下室に逃げたこの60歳の母親と、7歳になったばかりの愛くるしい双子の娘(下の写真)の命を奪った。母親はなんと13か所もの刺し傷、切り傷があった。一階にいた9歳の姉は、6か所もの傷を負ったが、奇跡的に一命を取り留めた。犯人は未だ分かっていない。(蔡氏、慟哭)

<参考>
事件後、収入が途絶えた林家は、この自宅(信義路3段31巷16号)を売却しようとしたが、皆怖がって買い手がつかない。これを見た長老教会が募金を呼びかけ、この場所に「義光教会」を設立した。

7歳の、この子らの命を奪う意味はどこにある?
母親は14か所もの傷があった

奇しくも、2月28日の出来事。我々は二回目の228事件、と呼んでいる。これが台湾の歴史だ。勿論、国民党の仕業とは断定できないが、24時間警備体制にあった敷地内に忍び込み、これだけの殺傷をやって逃げているのに、犯人は不明、というのがこの台湾の現実なのだ。

ここの獄舎は「仁愛楼」という名前がついている。そして緑島の24時間外出禁止の獄舎は「緑洲山荘」。中国人の感性がうかがい知れる。無辜の民をこんな目に会わしておいて、何が仁愛だ、山荘だ!

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