拷問は取り調べの段階で行われ、何の証拠のなかったが、自白書を無理やり作られ、その後、青島東路の軍法処(今のシェラトンホテル)で、判決を受けた。ここまで来ると拷問はない。判決が終わると、刑の執行がある。禁固は、当時は緑島。死刑(銃殺刑)になると、即、馬場町(今の青年公園南側)へ送られた。
(緑島の模型前で)緑島の収容所は2期に分けることができる。これは第一期(1951~1965年)のもので、牢屋ではなく、平原のような強制収容所だった。「新生訓導処」が正式名称で、「集中営」と呼んでいた。ここでは「労働改造」という仕事に従事した。今では跡形もない。ここには「3大隊」がいた。1大隊とは4中隊で、1中隊には130-150人がいた。(今、島に残っている建物は、この頃のものではなく第二期の1972年の施設)ここでは、昼間は外へ出られた。
勉強もさせられた。三民主義や、孫文や蒋介石の教えを学ばされた。それまで勉強したこともなかったマルクス主義や毛沢東思想などの批判も勉強した。
島に上陸したのは1951年5月のことで、女性も30人くらいいた。台湾のモダンダンスの母といわれた蔡瑞月は、日本でモダンダンスを学び、台湾で広めようとしたら、「思想に問題あり」と見られ、島に送られてきた。子供が生まれたばかりだったのだが、母子は引き裂かれてきた。台湾大学病院の優秀な医者もいた。内科主任の、将来のノーベル医学賞の候補といわれた許強(1913-1950年)は馬場町で殺された。眼科主任の胡鑫麟博士は生き延びた。その他多くの医者がいた。その頃、我々思想犯や、刑務所の長官などもそれらの先生に診てもらっていたが、そのうち、島の住人も看てもらいに来ていた。当時、こんな辺鄙なところに似合わない、先進的な医療が受けられる場所となっていた。
当時は電気も水道もない、渓流ひとつに頼り生活していた。川で水を汲み、食事を作った。畑を作り、豚や七面鳥(鶏の間違い?)など家畜も飼っていた。女性もいたが、あまり外出は許されなかった。その他、海で石を切り出し、居住区の石塀を作らされたが、これを「万里の長城」と呼んでいた。
この施設は15年ほど続いたあと、囚人は台東の泰源という監獄に送られたが、ここで1970年、蒋経国が初めてアメリカを訪問した年、台湾独立を目指す若者による暴動事件があり、1972年、再び、緑島に戻されたのだが、今度は24時間外出が一切できない、「緑洲山荘」と呼ばれる施設に押し込められた。これが戒厳令解除の1987年まで続く(下の写真)。