景美人権博物館での蔡焜霖さんのお話

目次

蔡焜霖氏の話

蔡焜霖氏

1)台湾白日恐怖(白日テロ)の歴史

僕は高校を出て1950年に捕まった。台中の清水にいた時、彰化の憲兵隊が来た。最初に(萬華にあった)東本願寺(今の獅子林商業大楼あたり)に送られ、その後、軍法処看守所に送られ、禁固刑に処せられた。当時の軍法処は、今の台北シェラトンホテルの場所にあった。住所は青島東路3号。監察院の隣。軍法処は1968年にここ景美に移った。戒厳令が解除されたのが1987年。その後は「政治犯」はいなくなった。軍事裁判もなくなり、一時は撤去の話も出たが、呂秀蓮(1944年生。1979年の美麗島事件で逮捕。懲役12年で景美軍法処に収監。2000-2008年副総統)が、施設を残すことを訴え、2018年人権博物館としてオープンした。

景美紀念園區

(受難者の名前が刻まれた記念プレート前にて)それぞれの名前の左上の数字は捕まった年、右の数字は白いのが出所、赤いのは殺された年(すべて銃殺刑)。浮き出ているのが終身刑。銃殺刑は昔の馬場町(今の青年公園の南側、新店渓北側の河原。記念碑あり。)と、安坑刑場(今の新店第三公墓)の二か所だった。受難者は、武器を所持していたのではなく、医者、教師、ジャーナリスト、若い学生などの知識階級による平和的な活動が殆どだった。
私が収監されていたのは1950~1960年まで。但し、ここ(景美)ではなく、緑島にいた。景美ができたのは1968年。当時は、最初は青島東路の軍法処に入れられた。無期懲役が多かった。結果として30年以上過ごした人も多く、最長は34年7か月の林書揚。

ここには228事件の受難者は入ってはいない。白色テロは、戒厳令発布の1949年5月から始まり、戒厳令が解除されてもなお、1989年にはジャーナリストの鄭南榕(1947~1989年焼身自殺)の一件もあった。当時すでに李登輝総統の時代になっていたが、雑誌に憲法を載せたということだけで反乱罪として逮捕しようとした。鄭はそれを拒否し、焼身自殺を行った。それを捉えに行ったのが、今回新たに新北市長となった候友宜(1957年~、元内政部警察署署長)。鄭を捕まえるのに600人の警官を動員した。

この場所は日本時代何があったかは分からないが、当初は軍法学校だった。建物は1960年頃作られたのでは。今は公園のような平和な場所だが、昔は怖かった。

国民党政府が台湾にきたのが1945年。私は中学生だった。皆、大歓迎したが、それは瞬く間に失望に変わった。兵隊は、天秤棒で鍋や釜を担ぎ、歩きながら唾を吐いたり、手鼻をかんだり、、我々は制服で、女学生はセーラー服で迎えにいった。そんな姿を見ても、大人は、「8年間も日本と戦ったのだから、疲労しているのは当然」と庇っていた。ゲートルさえ上手く巻けない兵隊も多くいた。くるぶしのところまで、緩んでずり落ちてしまっていた。私たちは、中学の頃からちゃんと巻いていたので、彼らよりずっと上手だった。するとまた大人たちは、「あれは、ゲートルの中に鉄板を入れ、鍛練しているのだ。戦争になったら(忍者のように)、壁にも屋根にも飛びあがれるのだ」と(笑)。

又、彼らは汚職まみれだった。役所で何かしてもらう為には、それまで日本時代にはなかった「紅包」が必要になった。又、インフレ(大陸での内戦用に物資を送った為、島内物価が急騰。1949年、4万元を1元とするデノミを実施、「新」台湾元が登場)もひどかった。1945年8月には米1斤(600g)が20銭。これが3カ月で60倍の12円になり、庶民の生活はとても苦しくなった。

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