台湾の敬天愛人・西郷菊次郎

NHK大河ドラマ「西郷どん」では鈴木亮平が演じる西郷隆盛が「菊池源吾」と名を変えて奄美大島に流されました。

西郷隆盛が奄美大島にいた1861年、二階堂ふみが演じる愛加那(とぅま)との間に長男・西郷菊次郎が生まれます。

この西郷菊次郎は後に台湾へ渡り、宜蘭に「西郷堤防」と呼ばれる堤防を建設したことで知られています。

この堤防建設には父・西郷隆盛の座右の銘「敬天愛人(天を敬い人を愛する)」を感じさせるエピソードが残っていました。

訪台までの西郷菊次郎

9歳で妹の菊子とともに鹿児島の西郷本家に引き取られ、わずか12歳で開拓使(農業)としてアメリカへ留学します。

2年半の留学を終えて帰国し、17歳で西南戦争に薩摩側で参戦します。

その際右足に銃弾を受けて膝下を切断、負傷兵となった西郷菊次郎は永田熊吉に背負われて政府軍の西郷従道(西郷隆盛の弟)に投降し一命を取り留めます。

 

1884年に外務省の御用掛、会計局勤務を申しつけられ、翌年外務書記生に任じられてアメリカ公使館勤務となります。

1887年から1890年に再びアメリカ留学を経験し、当時としては相当な英語力を身につけました。

1891年から外務省翻訳官に任じられ、日清戦争では陸軍省大本営付に任じられました。

 

日清戦争後は台湾総督府参事官に就任し台湾へ渡りました。

そして1896年に台北支庁長、1897年には宜蘭支庁長に就任しました。

西郷堤防と匪賊対策

西郷菊次郎

宜蘭支庁長として着任した西郷菊次郎は住民生活の改善を図りました。

西郷菊次郎は支庁内の仕事の合間に積極的に町へ出て住民の現状を自らの目で確認していました。

宜蘭河の氾濫

ある雨期の朝、強い雨が降り続き時間とともに雨脚が強くなり、ついには大暴風雨となりました。

そしてある農民が支庁に駆け込んで「宜蘭河が氾濫した!」と訴えました。

西郷菊次郎は直ちに部下数名を現地に派遣し、自ら地図を広げて対策を練りました。

奄美大島生まれの西郷菊次郎は暴風雨の脅威をよく分かっていましたが、宜蘭の台風は奄美大島以上に強大でした。

また広大な平野や深い山を抱える宜蘭で発生する水害は非常に広範囲に被害をもたらすことを察知したのです。

当時の宜蘭河には低い堤防しかなく、豪雨になるとたちまち氾濫し、濁流が堤防を乗り越えて田畑や家を押し流してしまいます。

雨は夕方には上がりましたが、宜蘭の田園地帯は大きな被害を受けました。

 

翌日、西郷菊次郎は舟に乗って被害現場を訪れました。

そしてあまりの惨状に落胆し、同じような被害を2度と起こさないように誓ったのです。

そのためには宜蘭河の堤防を高くするしかないと判断しました。

 

堤防建設・2つの問題

しかし堤防工事には莫大な資金が必要でした。

当時は領台初期で匪賊が各地を跋扈しており、台湾総督府はその対策に追われていました。

宜蘭という田舎の治水工事より優先順位が高そうな事はたくさんあったのです。

 

また資金以外にも問題がありました。

機械化されていない当時の堤防工事は、文字通り人海戦術が必要でした。

実際、堤防の第1期工事では延べ8万人、第2期工事では延べ74万人が工事に関わりました。

資金と人手という2つの大きな問題が西郷菊次郎に突きつけられたのです。

この2つの問題に一石二鳥とも言える方法で対処しました。

匪賊を雇用

西郷菊次郎は匪賊が武装して住民を襲うのは、それ以外に彼らが収入を得る手段がないためだと考えました。

そこで堤防工事の工夫として匪賊を雇ったのです。

もちろん、匪賊といえども投降して武装解除した者のみを対象としました。

 

台湾総督府の認可

堤防工事が治水事業のみならず匪賊対策にもなることを中央に訴えました。

西郷菊次郎にとって幸運なことに、この時は第4代児玉源太郎 台湾総督、後藤新平 民政局長の治世でした。

児玉・後藤コンビは台湾発展の基礎を築いたと言われており、鉄道建設、築港整備、土地測量、製糖会社創設などのインフラ整備を積極的に行いました。

この流れに宜蘭の堤防工事も乗ることができただけでなく、後藤新平は宜蘭の匪賊対策を西郷菊次郎に一任しました。

 

こうして西郷菊次郎は堤防工事の完成と匪賊の減少という2つの成果を上げました。

堤防工事終了後も工夫には道路工事や開墾の仕事を与え続け、再び匪賊に戻ることがないように配慮しました。

 

敬天愛人

西郷菊次郎が自ら町に出て住民と直接交流していたからこそ、匪賊が匪賊を続ける理由を見いだせたのです。

そして過去の行いを問わず仕事を与えたのは、匪賊であっても「人を愛する」という視点で見ていたからです。

まさに敬天愛人の精神と言えるでしょう。

現在まで伝わる西郷菊次郎

1902年、西郷菊次郎は母親の死を機に宜蘭支庁長を辞して内地へ帰り喪に服します。

1904年から1911年まで京都市長を務めた後、郷里の鹿児島へ戻り、1928年に68歳でその生涯を閉じました。

 

宜蘭河には今でも西郷堤防が残っています。

堤防完成後の1905年には住民有志が「西郷庁憲徳政碑」という石碑を建て、西郷菊次郎の治世を顕彰しその功績は現在まで伝わっているのです。

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