「理蕃飛行」と花蓮空港

台北から花蓮に日帰り旅行する方の中には飛行機で花蓮空港に降り立つ人も多いでしょう。

花蓮空港は日本統治時代に出来た空港で、日本の原住民(理蕃)政策で重要な役割を果たしました。

ところで初めて飛行機を見たときの感想を覚えていますか? 飛行機の大きさや音に驚いたのではないでしょうか。

今回お話しする原住民政策はそんな驚きを上手に使ったものでした。

花蓮の松園別館と花蓮港北飛行場

松園別館 (画像提供:台湾観光局)

松園別館は日本統治時代の1942年に陸軍兵事部として作られ、花蓮の最高軍事指揮所として使われました。

花蓮から出発する神風特別攻撃隊が最期の杯を交わした場所であると伝えられています。

現在の花蓮県は日本統治時代に「花蓮港庁」という行政区分に分類され、「花蓮港北(北浦)」「花蓮港南(南浦)」「上大和」の3カ所の陸軍飛行場がありました。

このうち花蓮北飛行場は1924年に塩水港精糖株式会社が所有する土地から50甲(約14.7万坪)ほどを警察が借りて、警察航空班の基地にしたのが始まりです。

台湾はもとより日本全土でも最初期の飛行場で、戦後も空軍と民間の併用飛行場として使われ続け、現在の花蓮空港になりました。

気球を見た原住民

当時の警察航空班の主要任務として、原住民政策の一環としての「理蕃飛行」がありました。

日本統治時代初期の山地原住民の一部は、自らの生活圏に他人を入れようとせず、立入る者は武力を持って抵抗しました。

そのため日本人はもとより台湾人も容易に山に入れず、統治する台湾総督府にとって悩ましい問題でした。

近代化した軍隊を持ってすれば、武力弾圧は難しくありませんが、それでは将来に禍根を残すと総督府は考えました。

そのため徐々に原住民の武装解除を進めながら、武力抗争になったときにも双方の被害が少なくなるようにしました。

1906年に桃園の馬武督溪一帯の原住民と戦闘になったとき、日本側は気球を馬武督社に向けて飛ばしました。

気球を見たことがない原住民が不思議に思ってみていると、空中の気球から爆竹の音が鳴り響きました。

初めて見る気球から鳴り響く爆音に驚いた原住民は戦意喪失し、大きな被害もなく帰順しました。

気球は当時の最先端科学であり、原住民から見ると「人間が空を飛ぶ」ということに信じられないほど大きな驚きになったのです。

この出来事に台湾総督府は注目し、陸軍の気球を台湾へ取り寄せて「理蕃政策」に用いるようになりました。

これがのちに飛行機を使った「理蕃飛行」の原点となったのです。

野島銀蔵の展示飛行と原住民

野島銀蔵とカーチス式飛行機・隼鷹号(台湾日日新報 大正3年3月15日)

1914年、三重県出身の民間飛行家・野島銀蔵がカーチス式推進型飛行機・隼鷹号で台北、台南、台中、嘉義の各都市で展示飛行をしました。

台中の展示飛行では台中庁の職員が75人の原住民を引率して見物しており、スルー社の頭目ブヨンセツトの感想が次のように記録に残っています。

頭目ブヨンセツトの感想
今日見た飛行機には生きた神様が乗っていて野島氏は神様の力を借りて飛行しているに違いない。

神様は恐ろしい強風を起こし、その上に飛行機を乗せるのでしょう。

私たちはこんな恐ろしい体験をしたことはありません。

蕃社における男女の習慣は、蕃族平和の上で唯一の生命ですから、これさえ破壊されなければ銃器の提出はおろか、どんなことでも官命に服しますから飛行機を蕃社に差し向けることだけは勘弁してくださるよう総督閣下にお願いしてください。

もっとも、飛行機を見たときの驚きは原住民だから特別と言うことはないはずです。

ライト兄弟が世界初の飛行機を開発したのが1903年、日本で初めて飛行機が飛んだのが1910年です。

展示飛行があった1914年の時点ではほとんどの日本人は飛行機を見たことがなかったので、原住民と同じような驚きを持ったとしても不思議ではありません。

台湾総督府警務局航空班の発足から「理蕃飛行」の終息へ

1919年、日本初の警察航空班として台湾総督府警務局航空班が発足し、5人のパイロット候補と15人の整備員候補を所沢の陸軍航空学校へ派遣しました。

訓練を終えたパイロットと整備員により、1920年4月16日に台北の古亭練兵場で警察航空班がお披露目されました。

5月16日には台中に展開し、本格的に「理蕃飛行」の任務に就きました。

花蓮ではじめて「理蕃飛行」が行われたのは1923年5月11日です。

このときはまだ花蓮港北飛行場が完成していなかったので、台東から飛行機が飛びました。

花蓮や台東の原住民の多くは飛行機を見たことがなく、「理蕃事業」推進に大いに役立ちました。

多くの成果を残した警察航空班ですが1927年9月に解散しました。

解散の理由は原住民の帰順が進んで武力衝突自体が減ったことや、出草(首狩)が少なくなったことがあげられます。

1912年には年間761人が出草の被害に遭っていたのが、1927年には9人にまで減りました。

もちろん警察航空班だけの力ではありませんが、「理蕃政策」において大きな役割を担ったと言えるでしょう。

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