1896年1月、台湾総督府民政局学務部は「新日本語言集」を出版した。この本は台湾人に日本語を教えるのに加え、日本人が台湾語を学ぶために作られた初の官制台湾語教科書だ。
本の緒言には「此書ノ撰修ニ就キテハ本部員故楫取道明同井原順之助同関口長太郎同三宅恒徳同中島長吉同桂金太郎同平井数馬ノ諸氏及本島人巴連徳柯秋潔朱俊英等與リテ力アリトス」とある。
「楫取道明」「関口長太郎」「中島長吉」「桂金太郎」「井原順之助」「平井数馬」と聞いてピンと来る人もいるのではないだろうか。そう、この本は芝山巌で土匪に殺害された六氏先生の遺作でもあるのだ。
1895年6月17日に樺山資紀総督による始政式が行われてから僅か7ヶ月で官制教科書が出来たのは何故か? それは当時の日本人が台湾人と本気で向き合った結果である。
当時台湾で使われていたのは台湾語、客家語、原住民諸語、中国語と多岐にわたる。この中で最も広く使われていた台湾語の通訳ができる人材育成が急務であった。行政はもとより領台直後は抗日運動や土匪が跋扈していたため、軍事的な活動においても台湾人と折衝する必要があったからだ。
しかし当初は「戦勝国民である日本人が土人の言語を学ぶ必要は無い」「土人に日本語を習得させるべきだ」という人もいた。それでも総督府が日本人の台湾語習得に力を入れたのは牡丹社事件の経験もひとつの理由と考えられる。
牡丹社事件は1871年11月、宮古島の漁民が嵐で台湾南部に流され、原住民のパイワン族に斬首された事件だ。はじめはパイワン族の集落で歓待を受けたが、言葉が通じないため漁民は集落を逃げ出した。逃げた漁民を敵と見なしたパイワン族が、54人の漁民を殺害したのだ。
当時清国は「事件があったのは化外の地であり、清国の支配領域ではない」とパイワン族を処罰しなかった。そのため1874年5月、日本の台湾出兵に繋がった。これには後の初代総督樺山資紀、初代民政局長水野遵も参戦していた。
日本軍はパイワン族と交渉する必要があったが、パイワン語を話せる者など軍内にいるはずもなかった。そこでまず日本語を英語に訳し、英語を中国語に訳し、それをパイワン語に訳したのだ。3段階の通訳を挟むので時間もかかり、また伝言ゲームのように内容が正しく伝わらないこともあったのだ。
言語不通によって引き起こされる非効率やトラブルを、領台初期の首脳部は理解していたのだ。日清戦争の勝者として奢ることなく日本人に台湾語を、台湾人に日本語をそれぞれ学ぶことが重要だと総督府が考えていたことは「新日本語言集」の出版をみても明らかだ。
現代に生きる我々もこの姿勢を見習いたい。